16歳で陸軍幼年学校に入学した豊寿は、軍人としての道を歩み、大正6年(1917)44歳の時、この収容所の所長となります。

豊寿は「ドイツ兵も祖国のために戦ったのだから」と敬意を表し、「武士の情け」を口癖にし、捕虜を信頼した自主性を尊重する寛容な態度を貫きました。

岩子は、江戸時代後期の文政12年(1829)、耶麻郡熱塩村(現在の熱塩加納村)に油商であった父、渡邊利左衛門と母りゑの長女として生まれました。

子どもたちが一人前になると、岩子は社会自動福祉に力を入れていきます。

戊辰戦争では、敵味方の区別なく負傷兵を看護し、避難民の救援に尽くしました。

明治になると、喜多方に幼学校を設立し、読み書きそろばんなどを教えました。

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健次郎は、安政元年(1854)若松城下本二之丁(現東栄町)に、会津藩士山川尚江(なおえ)の三男として生まれました。

9歳から藩校日新館に学び、15歳のとき、藩の軍制改革により白虎隊に編入されますが、若年のため一旦除隊しています。

新島八重は、弘化2年(1845)に米代四ノ丁(今の米代二丁目)で、砲術指南の山本権八(ごんぱち)の三女として生まれました。

慶応4年、板垣退助が指揮する西軍が城下に攻め入った時、24歳の八重は、砲撃の指揮を取ったりしました。降伏・開城の時には、城壁に「明日の夜は何国の誰かながむらん、なれし御城に残す月影」という歌を刻み続けて退却するなど、忠君愛国の精神を持った人でした。

33歳で会津藩家老職に就任。田中土佐と共に、会津藩主松平容保に京都守護職辞退を進言。

戊辰戦争では和議恭順を唱え、抗戦派に命を狙われ城下を脱出。

のち箱館戦争に参加する。降伏後は館林藩に幽閉。

赦免後、明治4年伊豆松崎に行き、郷学謹申学舎塾長を務めた。

幕臣の山口祐助の次男として生まれる。新撰組結成後は、その腕を買われて三番隊の組長となる。

会津戦争が敗戦間近になると、『会津を見捨てるのは正義ではない』と、一部の同士とともに会津に残る。

その後、藤田五郎と改名し、会津藩士の娘、時尾(ときお)と結婚。後半生を会津人として生き、市内七日町阿弥陀寺に眠っている。

戊辰戦争で新政府軍の仇敵となった会津藩は、本来は予備兵力であった白虎隊を、各防衛拠点へと投入するも最精鋭とされた士中隊も、奮戦空しく撤退を余儀なくされた。

負傷者を抱えながら、郊外の飯盛山へと落ち延びた士中二番隊であったが、そこから見る若松城周辺の火災を目にし、落城したと誤認して次々と自刃を決行したという。